人的資本開示のKPI設計ガイド —投資家が知りたい指標をどう選ぶか

人的資本開示のKPI設計ガイド —投資家が知りたい指標をどう選ぶか
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人的資本開示のKPI設計は「とりあえず数字を並べる」作業ではありません。目的は、経営戦略と人材戦略のつながりを数字で語れる状態にすることです。日本では有価証券報告書で人的資本の開示が強化され、ガバナンスや多様性の説明が求められるようになりました。 国際規格や国内ガイドラインを“型”として活用し、「在庫(人員構成)」「流れ(採用・育成・異動)」「成果(生産性・エンゲージメント)」の三層でKPIを設計すると、投資家との対話が前進します。本稿では制度や用語に注釈を加えつつ、定義を揃え、明日から使える実務の順番で整理しました。

人的資本開示 KPI 設計の基本

KPIを“経営と連動”で決める(ゴール→物語→数字の順)

KPIは人事部門だけで独立して決めるものではなく、必ず経営目標から逆算します。たとえば「新規事業の売上を3年で倍増させる」という経営目標があるなら、どんな人材を何人配置し、どんなスキルをどのタイミングで移行させるかという“物語”を描き、その物語を支える数字をKPIに落とし込むのです。

採用人数といった表面的な数字だけでなく、内定辞退率、オンボーディング完了率、3年定着率 のように、次の行動を左右する指標を選ぶと会議が意思決定に直結しやすくなります。最初は人事だけで抱え込まず、事業責任者や財務部門も巻き込み、合意できる最小限のセットから始めるのが現実的です。

枠組み(可視化指針・ISO・ガバナンス)を型にする

制度やガイドラインを“型”として使うことで、指標設計の迷いを減らせます。国内では 「人的資本可視化指針」(内閣官房) が参考枠組みを示し、経営戦略と人材戦略の連動、ガバナンス、リスク管理、指標と目標の整理を推奨しています。国際的には ISO 30414 が人材報告の領域を体系的に定義しており、グローバル投資家に説明する際の共通言語になります。

さらに、上場企業は コーポレートガバナンス・コード において、多様性の確保や測定可能な目標の設定・開示を求められます。これらの枠組みをベースに、社内の定義や集計範囲を統一すると、KPI設計や開示の一貫性が高まります。

KPIを「在庫・流れ・成果」で分けて重複をなくす

KPIは「在庫」「流れ」「成果」の三層に分けると整理がしやすくなります。

  • 在庫(ストック):人員構成、スキル保有状況、管理職比率など

  • 流れ(フロー):採用数、育成実績、異動件数、離職率など

  • 成果(アウトカム):労働生産性、エンゲージメントスコア、イノベーション件数など

各層は1〜2枚のダッシュボードに集約し、会議では「変化の理由」と「次の打ち手」に集中できるようにします。似た指標を乱立させるのは禁物です。定義が重複する指標は整理し、意思決定に使わない数字はアーカイブに回しておきましょう。

出典:内閣官房「人的資本可視化指針」
出典:ISO「ISO 30414:2025 Human resource management — Human capital reporting and disclosure
出典:JPX(東証)FAQ「補充原則2-4①:多様性の確保と測定可能な目標」

規制・基準を踏まえた人的資本開示 KPI 設計

有価証券報告書で求められる人的資本の要点

2023年以降、有価証券報告書ではサステナビリティ情報の一環として「人的資本や多様性に関する取組や考え方」の記載が重視されています。金融庁は好事例集を公開し、実務で参考にできる開示の観点を示しています。

初めて取り組む企業は、従来の任意報告の文章を流用するのではなく、指標の定義・範囲・計算根拠 を本文で明記し、時系列で整合性を持たせること から始めるのが効果的です。

コーポレートガバナンス・コードと多様性KPI

ガバナンス・コードの補充原則2-4①では、中核人材の多様性確保に関する“測定可能な目標”の設定と開示を求めています。具体的には、女性・外国籍・中途採用者などの登用目標と進捗を示し、育成施策や配置の考え方を実績データと一緒に開示することです。目標がない場合は理由の説明が必要です。

形式的な数合わせではなく、将来に向けた人材パイプライン(候補者層の広がり)を示す指標を置くことで、投資家との建設的な対話につながります。

国際基準(ISO 30414/ISSB・J-ISSB)の観点

国際規格の ISO 30414 は、人材に関する報告領域(コンプライアンス、コスト、ダイバーシティ、スキル開発など)を体系化し、用語や計算方法を統一する助けになります。

サステナビリティ開示では、IFRS財団の ISSB(国際サステナビリティ基準審議会) が公表したS1(一般要求事項)とS2(気候関連)が基盤です。日本でもSSBJが国内基準案を公表しており、今後人的資本もテーマ別基準の対象になっていく可能性があります。実務では、まず 重要性の判断プロセス と ガバナンス・戦略との接続 を明示することがポイントです。

出典:金融庁「記述情報の開示の好事例集 2024/2025」
出典:東証FAQ「補充原則2-4①」
出典:ISO「ISO 30414」
出典:SSBJ「IFRS S1/S2対応の公開草案」
出典:IFRS財団「Japan Snapshot」

“見られるKPI”の具体例と定義(初級セット)

体制・人材投資:育成費/研修時間/資格取得

育成費(従業員1人あたりの学習投資額) は、企業が人材のスキル移行にどれだけ本気で取り組んでいるかを示す指標です。集合研修の費用だけでなく、eラーニング受講料、外部資格試験の受講料、社内講師の工数なども含めるかどうかを最初に定義することが大切です。

研修時間 は“受講開始から修了までの実働時間”で測定し、学習プラットフォームのログと照合することで正確性を担保します。資格取得数 は“業務に必要な資格”に限定し、資格手当の有無と連動させると運用が明確になります。これらは採用依存を減らし、内部育成のスピードを可視化する基本的な指標群です。

多様性・公正:女性管理職比率/離職率/賃金差異

女性管理職比率 は「管理職の定義」を就業規則と一致させ、連結か単体か、国内か海外かなど範囲を明示して開示する必要があります。

離職率 は単なる全社平均ではなく、正規・非正規や年齢層別に分けて出すと構造的な課題が見えやすくなります。

賃金差異(男女間の賃金差) は、一定規模以上の企業で公表義務があり、分母分子やフルタイム換算の扱いを統一することが重要です。差異が生じる背景(職種構成や勤続年数、役職)を丁寧に説明し、是正計画をKPI(登用・採用・育成)につなげると、投資家からの信頼性が高まります。

健康・安全・働き方:欠勤率/長時間労働/健康施策

欠勤率 は病欠や私傷病休職を含む定義で計算し、インフルエンザ流行など季節要因も補足して説明します。

長時間労働 は「月○時間超」の対象者割合だけでなく、部門ごとの傾向や業務設計の要因をセットで示すと改善に役立ちます。

健康施策 は「健康経営」の枠組みを参考に、定期健診の受診率、ストレスチェック実施率、運動・食生活改善プログラムの参加率などを組み合わせます。単なる施策の羅列ではなく、離職率や生産性との関連を時系列で示すこと が投資対効果を語るうえで有効です。

出典:ISO「ISO 30414
出典:厚生労働省「男女の賃金の差異の公表(301人以上)」
出典:経済産業省「健康経営優良法人認定制度」

データ収集・品質管理の実務

定義・分母分子・範囲を統一する

人的資本の数値は“定義の差”で大きくぶれます。正規/非正規の扱い、派遣・請負の含め方、海外拠点の対象範囲、在籍者数か期中平均か——これらを曖昧にすると比較ができません。

最初に分母分子の定義を決め、帳票の冒頭に明記するのが鉄則です。前年との比較が目的なら「同一範囲」で再計算し、連結範囲拡大などの構造変化がある場合は補助注記で説明を加えます。定義書(データ辞書)を作り、更新履歴を残すと、担当者が替わっても品質を維持できます。

システムと流れ:HR・勤怠・会計をつなぐ

人的資本のKPIは、人事システム、勤怠、給与、会計といった複数のデータを統合して作られます。手作業の集計は必ずエラーが出るため、対象データや抽出条件を定型化し、自動集計→定期レビューのサイクルに切り替えるべきです。

採用・研修のデータは人事マスタと突合し、重複や区分ズレを解消します。さらに、財務側の生産性指標(付加価値/人件費)と突き合わせることで、管理会計との整合性が取れたKPIが構築できます。

内部統制・監査対応:証跡と再計算可能性

開示で問われるのは「正確さ」だけでなく「再現性」です。各KPIに計算式・データ源・責任者・承認者を紐づけ、締め処理の手順を文書化します。

重要な指標はサンプル監査(原票との突合)を実施し、監査法人や内部監査への説明資料をひとまとめに準備しておくと安心です。また、個人情報の取り扱いは最小化・暗号化・アクセス制御を徹底し、保存期間をルール化することも不可欠です。

出典:金融庁「記述情報の開示の好事例集 2024」

ストーリーとしての人的資本開示 KPI 設計

経営戦略との“因果の筋道”を示す(3P・5Fの使い方)

「人材版伊藤レポート2.0」では、経営戦略と人材戦略を同期させる視点(3P)と要素(5F)が提示されています。実務では、成長戦略に対し「どの職種を、何人、いつまでに、どのように育成・採用するか」を数で語ることが必要です。

たとえばデジタル人材不足がボトルネックなら、育成投資額、異動率、外部採用比率をセットで追い、四半期ごとに進捗差を説明します。物語 → 数字 → 改善 という順番で開示することで、投資家の理解と信頼を得られます。

目標と実績の見せ方:ベースライン・時系列・外部比較

目標は測定可能で、時系列比較が効く形で設定しましょう。女性管理職比率なら基準年・目標年・四半期進捗を並べます。賃金差は職種や等級の構成差に左右されやすいため、補助指標(採用数・育成施策・配置状況)で背景を補足するのが有効です。

外部比較は業界平均やISO 30414の定義に合わせると、投資家に理解されやすいです。達成できなかった場合も、要因分析と修正計画を明示すれば、かえって信頼度は高まります。

リスクと改善計画:離職・スキルギャップ・パイプライン

人的資本の主要リスクは「離職の増加」「スキルギャップ」「管理職パイプラインの不足」です。離職率は年齢や職種別に分解し、退職面談の定性データと合わせて対策を示します。スキル面は資格取得や学習修了率、現場でのアサイン状況を追跡し、投資の効果を数字で見せます。

パイプラインは後継者候補の準備度や代替要員の厚みで測定し、異動・公募制度で底上げする計画をKPIに落とすことが現実的です。

出典:経済産業省「人材版伊藤レポート2.0」
出典:内閣官房「人的資本可視化指針」
出典:ISO「ISO 30414」

まとめ

人的資本開示のKPI設計は、経営目標から逆算して考えることが第一歩です。国内外の枠組み(可視化指針・ISO・ガバナンス)を型にし、在庫・流れ・成果の三層 で整理すれば、投資家との対話に使えるKPIが整います。

データの定義・範囲・分母分子を統一し、データ辞書と証跡を残すことで品質を確保します。開示は単なる数字の羅列ではなく、経営戦略との“因果の筋道”と改善計画を添えて語ることが重要です。

最初は最小限のKPIから始め、四半期ごとに見直していくこと。こうした地道な積み重ねが、投資家からの信頼を高め、人的資本を「経営の武器」として活かす基盤になります。

カテゴリー:人事・労務

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